好きな選手を見るために海を渡ること

僕が初めてNBAを現地に観戦しに行ったのは大学1年生の時だった。19歳だった。バンクーバーとロサンゼルスに1人で旅をした。小6で出会ったNBAは、僕の人生を変えてしまったわけだけど、当然現地で試合を見たことは一度もなかった。中学生、高校生だった自分に、そもそもそんなことが実現できるとすら思っていなかったのだから当然と言えば当然だ。

この時きっかけになったのも当然、大好きだったアブドゥル=ラウーフだ。ラウーフは97-98シーズンを最後にNBAから離れた。当時28歳だったラウーフは選手として絶頂期であるべきだったが、国歌斉唱に起立していなかったことが社会問題となり、実質的に彼のNBAキャリアを奪ってしまったのだった。高校生だった僕にとって、彼のプレイが急に見れなくなってしまったのはとても辛いことだったが、まだ自分にできることなど何もなかった。

変化していく日常

まだインターネットで情報得られる時代ではなかったから、ほぼ唯一の情報源であるNBAの情報誌「月刊HOOP」や、「月刊ダンクシュート」でラウーフに関する情報を隅々まで探すのが習慣だった。そして98-99シーズンの終わり頃「ラウーフが引退を決めた」という記事を見つけた。もうこれでラウーフのプレイを生で見る夢も潰えたと思った。

もちろんNBAやNCAAの試合を見る習慣は何も変わらなない。アイバーソンや、コービーとシャック率いるレイカーズの時代が始まろうとしていた。NCAAにのめり込むきっかけになったヴィンス・カーターもドラフトされ僕は常にNBAから目が離せなかった。

同時に、インターネットで情報を得ることが爆発的に普及した時代でもあった。大学に入学すると、1人1人にメールアドレスが与えられ、メディアセンターに行けばいつでもパソコンでインターンネットを触れられるようになった。

僕はNBAの情報に飢えていた。毎日メディアセンターに行っては、パソコンに座って数時間インターネットに触れるのが日常になった。毎日毎日、NBAの全ての試合のボックススコアをチェックする馬鹿な日常だった。情報はCS放送のNBAからが主だった僕にとって、主体的に自分が知りたい試合の情報を得れることは信じられないくらいエキサイティングだった。自分の気になっている選手の得点、リバウンド、アシスト、3ptなど、あらゆる情報を集めた。

試合だけでなく、NBA.comの“Transaction”というページをチェックするのも日課だった。そこではトレードや選手の契約情報などが毎日アップデートされるのだ。僕はすでにNCAAの全米ランキングや、ランキング上位チームの試合、そしてドラフト候補生の情報まで隈なくチェックしていたから、フリーエージェントの選手の動向も常に気にしていた。6月のドラフトの日は授業には行かず、午前中はずっとパソコンの前でテキスト情報だけのドラフトをチェックし続けた。(当時はドラフトが動画で見れる時代ではなかったのだ)

そんな日常を過ごすある日、Transactionのページに驚きの情報がアップデートされた。

“Vancouver Grizzlies signed with Mahmoud Abdul-Rauf”

ラウーフが帰ってくる!

「ラウーフが帰ってくる!」

静かなメディアセンターの中で、思わず声が出そうになった。

人生の中で1度は本物を見てみたいと思いつつ、引退してもうチャンスはないかと思っていた。

「行くしかないよな」

これがラウーフを生で見れる最後のチャンスになるかもしれないのだ。

高校生の時に”ジョーダンキャンプ“でロサンゼルスには行って以来、海外に行くのは2回目、1人で行くのはもちろん初めてだった。

とりあえず、「善は急げ」とはよく言ったものだが、前のめりになった気持を抑えきれず、開幕戦を見に行くことに決めた。せっかく行くのだからと、開幕からバンクーバーでシアトルとの開幕戦を見て、LAに飛んで@クリッパーズを観戦、そしてまたバンクーバーに戻ってレイカーズ戦とアトランタ戦を見る。4試合の観戦ツアーを計画してみた。

しかし、そこで問題が発生する。どうやってチケットを取ったらいいか、どうやってホテルを取ったらいいか何も分からないのだ。インターネットでチケットを取る時代ではまだなかった。何も分からないから、とりあえず旅行会社へ向かった。旅行会社へ行くという経験も今思えば初めてだ。飛行機、ホテル、NBAチケット全てを旅行会社に見積もりしてもらった。

見積もりは約30万円だった。

さすがに30万円の貯金はなかったから、親に頼んで借金をすることにした。元々やると決めたら絶対にやると親に思われてた(言うこと聞かない)と思うし、ローンを組んで購入したバイクも、全てバイトをして自分で返済していたから、多少の信頼はあったのかもしれない。特に反対はされなかった。

僕の父親は地方公務員、母は基本は専業主婦だったけど、定期的にパートで家計を少し助ける。特に貧乏でも裕福でもない。いわゆる中流階級の家庭の1つという感じだった。僕はと言えば、高校1年生でバスケ部を辞めて以来、クラブチームで草バスケに明け暮れる一方で、アルバイトもたくさんやっていた。バイクの免許を取って、250ccのバイクを購入したのは、高校2年生の時だった。(その話はまたそのうち)

本気にさえなれば

今どきの言い方をすれば、“推し活”ということになるのだろう。大学生だったけど、まだ成人もしていない19歳だった。それでもちょっとした行動力さえあれば、数日後にバンクーバーまで行くことができるということが分かった。

成田空港からバンクーバー行きの飛行機に乗った時の高揚感は今でも忘れられない。バンクーバーの空港からダウンタウンまで、どのバスに乗るかすら分からず、英語が話せないから聞くこともできない。「地球の歩き方」を常に片手に持つ旅だった。たまたま機内でお世話をしてくれたフライトアテンダントのお姉さんが通りかかり、困っている僕をダウンタウン行きのバスに乗せてくれた。基本的にひとりぼっちの旅だったけど、たまには小さな出会いもあった。

ラウーフ復帰というニュースが起こらなければ、不可能かどうかの前に、行動しようとも思わなかったけど、迷いない決意と、小さな行動が僕をバンクーバーまで連れて来てくれた。

そういう意味では、どんな人だって本気にさえなれば、明日にはニューヨークでもどこでも、世界中のどこにだって行くことができるはずだ。

本当に、本気にさえなれれば。

6分は長いか短いか

肝心のNBA初観戦は、決して順風満帆とはいかず、ラウーフは僕が観戦した4試合のうち1試合だけの出場、6分プレイしただけだった。得点は0点だった。30万円以上のコストをかけて海を渡った19歳にとっては、なかなかツラい現実ではある。

BS放送の中で初めてラウーフを見た時に解説の島本和彦さんが言った言葉を今でも覚えている。「ラウーフのシュートはね、ホントにリングに全く当たらない。ほとんどのシュートがスパッと入るんですよ。ウォームアップのシューティングを見るだけで、おを払う価値がある。それこそが本物のプロですよね。」

試合でのプレイはほとんど見れなかったけど、試合前のシューティングは4試合も見ることができたわけだ。

試合前のチームでのウォームアップをあそこまで真剣に、集中して見つめる人間は、あの試合会場で僕だけだったのではないだろうか。

ラウーフのプレイは6分しか見れなかったけど、中学生の時にあの放送の中で聞いた言葉を確認できた。あの言葉は本当だった。

バスケに出会って以来、ずっと追いかけてきた選手と初めて同じ空間にいる。その事実がとても嬉しかった。

どんな試合だったかは全然覚えていない。

コーチトミー
この記事を書いた人
冨山晋司

1981年生まれ。立教高校、立教大学卒業。東京新宿区の公立中学校で外部コーチ後、
【2009-10】東京アパッチ(bjリーグ)アシスタントコーチ
【2010-11】bjリーグアカデミーサポートコーチ
【2011-12】  岩手ビッグブルズ(bjリーグ)アシスタントコーチ(シーズン途中よりヘッドコーチ代行)
【2012-13】千葉ジェッツ(bjリーグ)ヘッドコーチ
【2013-14】熊本ヴォルターズ(NBL)アシスタントコーチ
【2014-2018】アルバルク東京アシスタントコーチ
【2018-19】大阪エヴェッサアソシエイトコーチ
【2019-2021】大阪エヴェッサアシスタントGM兼アナライジングディレクター
【2021- 現在】日本バスケットボール協会(JBA) 技術委員会 テクニカルハウス
男子日本代表テクニカルスタッフ (2023年アジア競技大会 男子日本代表アシスタントコーチ)

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