ジョーダンキャンプでの出会い ~アメリカバスケ文化に触れる~

バスケットボール

高校2年生のボクはヤングジャンプの企画で、あのマイケル・ジョーダンのキャンプ、”フライトスクール”に参加した(参加までのきかっけ“スラム作文”)。海外旅行など行ったこともない中流階級家庭に生まれたボクにとって、初めてのアメリカだった。NBAに憧れる17歳が経験する初のアメリカ。ロサンゼルス空港からのハイウェイを走るだけで、まさに”血湧き肉躍る”感覚。窓の外に見える背の高い人は、黒人だろうと白人だろうと全員バスケ選手に見えた。

10人の仲間

集英社企画で選ばれたのは10名だった。小学生3年生から高校3年生までの10名。高校2年生だったボクは、上から2番目のお兄さんということになる。我々集英社チームは1団体として、大きなドミトリーの1つの部屋を共同で使用した。アメリカらしい大きな部屋で、3、4つの小部屋に分かれて生活は、今では良い思い出だ。解散後はほぼ誰とも連絡をとっていないけど、元気にしてるかな。

集英社企画で集まった10名の仲間

キャンプが行われたのは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校。通称UCSBと呼ばれ、あのシャックやコービーと一緒にプレイし、レイカーズで優勝したブライアン・ショーの母校でもある。

キャンプでは最初に年齢別に分けられ、16-18歳は同じグループ。記憶は定かではないけど、16-18歳だけで100名ほどいたと思う。背の順に並べられ、10人づつの10個のチームに分けられ、それぞれのチームにはNBAチームの名前がつく。僕らはアトランタ・ホークスだった。チームには200cmほどのドイツ人、フランス人、メキシコ人、中国人、アメリカ人、そして日本人が3人もいる多国籍チーム。しかしながら、英語が話せないのは日本人だけ。それぞれのチームに割り当てられたコーチの言うことも分からないし、もちろんチームメイトとも話せない。コミュニケーションの難しさを学ぶとともに、他の国の若者たちが英語が話せることに驚かされたわけだ。

コートでは勝ち続けなければならない

アメリカのバスケ文化への驚きもたくさんあった。オフの時間にコートでシュートを打っていると、後から入ってきた知らない黒人選手がボクのリバウンドボールを拾い、ボクに返してくれるのかと思いきや、彼はそれを自分のボールにしてシュートを打ち出したのだ。

ボールを奪われた、、、。

彼がそのシュートを外すと、反対にボクは彼のリバウンドを拾い、ボールを取り返す。そしてボクがシュートを決めると、また彼がボールを拾う。しかし、今度は彼が僕にボールを返す。

「あれ?返ってきた」

不思議に思っていたけど、周りの様子を見て少しづつ謎が解けてきた。“シュートを決めると自動的にボールが返ってくる、ミスするとボールを奪われる”という暗黙のルールが常にコートの中でも存在していたのだった。

ボクは高校2年生では部活に所属しておらず、新宿コズミックセンターというところでよくバスケをしていた。そこは半分くらい外国人がプレイするコートがあり、そこではアメリカストリートボールにまつわる(であろう)ルールでゲームが行われていた。試合に参加するには、誰かのチームに入れてもらうか、「自分が次!(I got next)」と宣言し、自分でチームを作って挑戦者として参加しなければいけない。そして、勝ったチームはずっとコートで試合することができると言うのがシンプルなルールだ。つまりWinner Stays。日本で言うと勝ち残りと言うやつだ。

外国人が中心だったそのコートでは、非常に激しくゲームが行われ、勝ち残りであるが故に、みんな下手クソな奴はチームに入れたくない。ボクは170cm程度の小さな高校生だったので、チームに入れてもらえなかった経験が何度かある。今では良い思い出だ。

アメリカのコートでは、シュートを外せば、ボールは返ってこない。

言葉が通じなくても、年齢も国籍も関係なく、そこには明確なルールがあった。

日本の部活しか知らない日本人の高校生にとって、その事実はとてつもなく” エキサイティング”だった。

キャンプでの練習中の一コマ

ドリブルはアメリカの魂

キャンプの中ではいくつかのコンテストが行われた。3ptコンテストや、ドリブルコンテストだ。KJや、アイバーソンが大好きだったボクは、比較的ドリブルには自信があったわけだが、そこでは”魅せる”ドリブルが要求された。時代はまだAnd1ミックステープが生まれる前。ボクにとって最大の魅せるドリブルは、せいぜいティム・ハーダウェイのキラークロスオーバードリブルだった。勝ち残った選手たちのドリブルは、ボクが見たことのないドリブルだった。首の後ろを回すドリブル、右手から右手に素早く切り替えるレッグスルー、ダボダボのTシャツの中にボールが入っていくドリブル。ダブルドリブルかどうかとか、そんなことは関係なかった。ドリブルが大好きだったボクは、新しい技の数々に圧倒され、そして釘付けだった。帰国後、思い出せる限りそこで見たドリブルを練習したことは言うまでもない。

ファイナルラウンドまで残った選手たちのドリブルはどれも見応えがあったが、その中に日本人がいたのもボクを悔しい気持にさせた。彼はボクより少し大きくて、身長175cmほどだろうか。軽々とリングを掴むほど、すごい跳躍力を持っていた。別のチームだったこともあり、最初は日本人だとは思わなかったほどだ。それほど彼のジャンプ力はキャンプの中でもずば抜けていた。彼は何をやってもアグレッシブで、コンテストでも、その後行われる試合でもとても目立っていた。

早く日本へ帰りたい

ボクはキャンプでの自分のプレイを少し後悔している。

「もっとやれたのに、、、」

という気持で帰ってきたのが正直なところだ。

しかしそれと同時に、新しいバスケット文化(しかもNBA!!)に触れ、「早く日本に帰って誰かにこれを伝えたい!」こんな気持ちを抑えられなかった。(もちろん、実際は全く帰りたくない!)

そして、キャンプ後半にもっと衝撃的な体験が待っていることに、ボクはまだ気がついていない。

-続く-

夜の時間は、あのジョーダンが目の前でピックアップゲームをしてくれた。相手の大学生チームの中にはDukeのWilliam Averyなど大物もいた。
コーチトミー
この記事を書いた人
冨山晋司

1981年生まれ。立教高校、立教大学卒業。東京新宿区の公立中学校で外部コーチ後、
【2009-10】東京アパッチ(bjリーグ)アシスタントコーチ
【2010-11】bjリーグアカデミーサポートコーチ
【2011-12】  岩手ビッグブルズ(bjリーグ)アシスタントコーチ(シーズン途中よりヘッドコーチ代行)
【2012-13】千葉ジェッツ(bjリーグ)ヘッドコーチ
【2013-14】熊本ヴォルターズ(NBL)アシスタントコーチ
【2014-2018】アルバルク東京アシスタントコーチ
【2018-19】大阪エヴェッサアソシエイトコーチ
【2019-2021】大阪エヴェッサアシスタントGM兼アナライジングディレクター
【2021- 現在】日本バスケットボール協会(JBA) 技術委員会 テクニカルハウス
男子日本代表テクニカルスタッフ (2023年アジア競技大会 男子日本代表アシスタントコーチ)

冨山晋司をフォローする
バスケットボール温故知新(昔話)
シェアする
冨山晋司をフォローする
Where basketball takes me
タイトルとURLをコピーしました