16歳。
まだ高校の部活を辞める前の話。
今となっては記憶は少しづつ風化しているけど、夏休みに入ってすぐ、およそ1週間部活が休みの期間があった。別にやりたいことなどない。だけど、「何か面白いことをやりたい」という想いだけで、同じバスケ部の三吉(ミヨシ)を誘って自転車で、我々の地元池袋から伊豆の下田を目指すことにした。
抑えきれないエネルギー
まだ何者でもない少年だからこそ、何か変なことにチャレンジしてみたいという、消化しきれないエネルギー。
僕の自転車は、かろうじで3速のギアだけ付いている、いわゆるママチャリとよばれる類のものだった。本気っぽいスポーツ自転車に乗るつもりは毛頭なく、自転車はボロボロであればあるほど我々に相応しい。近所のコンビニに牛乳を買いに行くくらいのノリで、伊豆下田の海まで行きたかったのだ。
ママチャリの大きな前カゴに、およそ半分が寝袋で占拠されたボストンバッグを1つ入れて、元気よく下田へと出発した。最初からどこかに宿泊しようなどというつもりは一才なく、全ては野宿の予定だった。当然、当時はケータイなど持ち合わせていない。道が分からなくなれば、コンビニに寄って販売されている地図でチェックする。時間は十分にあって、先を急ぐ理由はどこにもないのだ。まずは、国道246をひたすら厚木方面へ。厚木あたりで適当に南下し、国道1号方面へ行く。初日の目的地は小田原あたりだ。
走り始めて数時間で、お尻が痛くなった。長時間のサドルはなかなかしんどいことを、出発してわずか4時間で知ることとなる。立ち漕ぎ、座り漕ぎを織り交ぜお尻をかばいながら、車と車の間を縫うように快調に進んでいった。
7月の国道はとにかく暑さが半端じゃない。夕方になって涼しくなり始めると、僕らはペースを上げた。
到着した小田原は小田原城祭り(正確な名前は知らない)をやっていた。僕は謎の小田原城Tシャツを買った。小田原は都会すぎて寝る場所を探すのは難しいので、僕らは隣の駅の早川へ向かい。初日は早川駅で眠りについた。寝袋で寝たものの、顔を出さないと暑いし息苦しいので、信じられないくらいの量の蚊に襲われた。
海岸沿いを走るママチャリ
2日目からはついに伊豆に入り、海沿いを走れるだけにとても気持ちが良い。ただし、有料道路を走れるわけではない僕らは、山道にも行かねばならない。アップダウンはなかなかキツイが、キツイ時は歩いても、バスケ部の練習のように怒られることもない。自転車が走れる珍しい有料道路、“真鶴道路”を走って、料金所で20円を払ったのも良い思い出だ。
ゴール直前で三吉とハグれてしまうアクシデントなどもあった。携帯を持っていなかった僕は、公衆電話から彼の家に電話をしたり、連絡を取り合う手段がなかった当時の旅は、今ではもう絶対に味わえないものだと思う。最終的に三吉が先に下田に着いていると分かり、追いかける形で僕ら2人は約2日半という時間をかけ、ゴールへとたどり着いた。

“写ルンです”でこの写真を撮影した彼は、今は写真家として活躍している。この時のチャリ旅に魅了され、その後チベットをチャリで走ることになるとは、彼自身も想像していなかったに違いない。
旅とは
道の途中にはいろいろなことがある。真夏ということもあり、バスケットパンツとタンクトップ1枚で自転車を漕いていたわけで、はっきり言って汚いボロボロの身なりだった。行きの途中か、帰りの途中だったのかは全く覚えていないけど、伊東から熱海に向かう途中の国道135号線沿いにローソンがあった。ローソンから国道を挟んだ向かい側には一面海が広がる。最高の景観と、夕暮れ時の潮風が今でも忘れられない。
僕らは帰り道の途中だったこともあり、ドリンクを飲んで少し休憩をしていた。そんな時にお店のオーナーが、僕らに声をかけてくれた。何を話したかは覚えてないけど、汚い身なりにボロボロの自転車で旅をしている高校生を面白がってくれたのだろう。お店には、オーナーの子供たちとおばあちゃんもいて、子供たちとも少し戯れただろうけど、あまり覚えていない。
帰りがけに廃棄処分になるおにぎりやパンを、レジ袋いっぱいに持たせてくれた。知らない町で、知らない人に優しくしてもらう、初めての経験だったのかもしれない。
旅から帰って来てから、お礼のハガキでも送ろうかななんて思ったこともあったのだけど、結局しないまま20年以上が過ぎてしまった。
母方の実家が伊豆熱川だったこともあって、僕が伊豆を訪れる機会は人より多い。そして、あのローソンの前を通るたびに、あの旅のことを思い出す。




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