17歳で参加したマイケルジョーダンバスケットボールキャンプ”フライトスクール“。
キャンプの後半はゲームの連続だった。キャンプ自体は、実力で集められた選手たちではないこともあり、それぞれの選手の実力は本当にまちまちだった。しかしながら、とても多国籍だったボクのチームメイトはかなりハイレベルな選手が多く、200cmのドイツ人は試合で何度もダンクをした。

キラークロスオーバー
ボクは、高校生の部活で鍛えたスライドステップで、ディフェンスでは活躍することができた。毎回フルコートで相手のガードにプレッシャーをかけた。日本人の武器は、部活で毎日やり続けるディフェンスフットワークだ。スピードのないアメリカ人は、僕らのボールプレッシャーにまともにボールを運ぶことができない。バックコートでは日本人は活躍できるのだ。しかしながら、点差が10点以上に広がると、バックコートでプレスすることをレフリーに禁じられた。当時は理解できなかったけど、参加者がしっかり経験を積めることを優先した良い配慮だと、今では大きく共感できる。
さて、ドリブルコンテストで活躍した脅威のジャンプ力を持つ日本人は、試合でも大活躍だった。アイバーソンのような振り幅の広いクロスオーバードリブルは、アメリカ人からも注目されていた。ボクは「マッチアップしたらどうかな?」と考えながら彼のプレイをさりげなく観察していた。ディフェンススライドでの横の動きに自信があったボクは、クロスオーバーをスティールすることが得意だったのだ。
「ボールの動きを読めればスティールできるかも、、、」
ついに彼とのマッチアップがやってきた。ボールを運んできた彼は、右サイドのスロットあたりでボクに1オン1を仕掛けてきた。ボクはチームで大して活躍していたわけではない。自分が舐められていることは知っている。それと同時に、あの右手から左手へ繰り出すクロスオーバーが来ることも予測していた。カッコよく言えば、誘っていた。彼の右手からボールが離れ、左手にボールが収まる少し手前、ボクはその軌道になると思われる場所に右手を伸ばした。
ボールに触れた。
彼の身体はボクの身体の右側を抜けていく、しかしボクの右手に当たったボールだけは、彼と反対側へ転がる。ボクはそのまま加速してボールを広い、ドリブルで一気にコートを駆け上がった。スティールは完璧に成功し、誰が見てもイージーレイアップのシチュエーションだ。ボクはリングの左サイドから、ワンツーステップで、右手のレイアップシュートを決めた、
はずだった。
ボクはボールが自分の手から離れ、バックボードに当たるのを見ていた。しかし、バックボードに当たる直前、ボールは突如加速し、激しくボードへ当たって後方へ飛んで行ったのだ。シュートは外れた。
いったい何が起きたのか瞬間では理解できなかったが、すぐに背後からの人影が視界に入り、ボクは自分のレイアップがブロックされたことを悟った。
いわゆる、チェイスダウンブロックというやつだった。
レイアップを目指すボクは後ろを振り返ることすらしなかったのだけど、得意のクロスオーバードリブルをスティールされた彼は、恐ろしいスピードでボクを追いかけてきたに違いない。人生で最初のチェイスダウンブロックをボクは生涯忘れないだろう。
初めてのアメリカで、想像を絶する大きさと、身体能力に叩きのめされることにワクワクしていたのに、ボクのショットをブロックした男は、なぜか日本人だった。
11年後
ボクは東京アパッチのアシスタントコーチとして、代々木第2体育館のベンチから試合を見ていた。対戦相手は大阪エヴェッサだった。プロのコーチとしてルーキーだったボクは、恐ろしいほど対戦相手の選手を知らなかった。スカウティングでもちろんビデオは見ていたけど、当時のビデオの画質は絶望的で、ウィングの日本人はよほどの特徴がない限り、誰が誰だか判別は困難だった。

試合中、1人の日本人選手が目に留まる。
「どこかで見たことある顔だなぁ」
すぐには思い出せなかったけど、何度かコートを往復する彼を見る間に、記憶が蘇ってきた。彼は、あの時ボクに人生で初めてのチェイスダウンブロックをかました男だった。
彼の名前は、仲西淳だった。
その後、いくつかの機会で彼とも話す機会はあったのだけど、なんとなく彼にはそのことを言い出せずにいた。
しかし、2025年になった今年、とあるBリーグの試合でたまたな彼と会う機会があり、27年越しにこの事実を伝えることができた。
ボクは、仲西淳の長いバスケキャリアの中で踏み潰された、多くの蟻んこの中の一匹に過ぎない。しかし、この恨みは一生語り継いでいきたい。
それでも、やっぱりアメリカは最高だった。



